故郷の宇宙で送った人生のほかのあらゆる部分は、とてつもないスケールの旅の中に拡散して意味を失っていたけれど、時間を超越したこの世界は、いまも完璧に意味のあるものだった。つまるところ、すべては数学なのだ。

──グレッグ・イーガン『ディアスポラ』

0.すべての可能な宇宙

宇宙は一つではない。
宇宙という語彙によって想起される印象は一意ではない。
宇宙論研究者の松原隆彦によれば、その言葉は多くの場合、次のいずれかを示すために使われる。

1.自分の目で実際に見ることの出来る範囲の宇宙
2.人類がこれまでに観測したことがある範囲の宇宙
3.まだ人類が観測したことはないが、原理的には観測することができる範囲の宇宙
4.いくら技術が進んでも原理的に観測できない範囲の宇宙
5.原理的には観測できないが、論理的に存在可能な別の宇宙
6.論理的に存在可能かどうかを原理的に証明できない別の宇宙
7.論理的に存在不可能な宇宙

一方、本書『数学的な宇宙』の著者であるマックス・テグマークは、上記すべての宇宙の分類について、仮説を用いて一元論的に整理する。仮説の名称は「数学的宇宙仮説」という。
「数学的宇宙仮説が正しいとすると」とテグマークは書いている。「私たちの物理的実在は時間と空間の中には存在しない(時間と空間のほうが物理的実在の中にある)。したがって、創造されたり変化したりしないし、終末や消滅もない」

本稿は、数学的宇宙仮説に関するいくつかの覚え書きを残すことを目的に書かれている。

1.数学的宇宙仮説による宇宙の分類

数学的宇宙仮説。
理論物理学者マックス・テグマークによって提唱された仮説。
数学的宇宙仮説は宇宙が一つではなく複数あることを主張する。
数学的宇宙仮説は宇宙が数学的構造物であることを主張する。
数学的宇宙仮説の内容について、要約すれば以下の通りとなる。

・宇宙は膨張している。
・宇宙の膨張はインフレーションモデルによって説明される。
・インフレーションモデルは量子ゆらぎを前提とする。
・宇宙は量子的にゆらいでおり、ゆえに量子論的な性質を持つ。
・宇宙は量子論的な性質を持つために、つねに確率的に分岐している。
・宇宙は分岐しつづけており、波動関数は収束しない。
・つまり、ヒュー・エヴェレットの多世界解釈は正しい。
・並行宇宙は無限に存在しており、この宇宙は人間に観測された宇宙である。
・人間は観測によって、人間にとって都合のいい宇宙を認識している。
・観測された宇宙以外にも、無数の宇宙が存在する。
・主観的観測によって認識された宇宙の実在を「内的実在」と呼ぶ。
・間主観的観測によって認識された宇宙の実在を「合意的実在」と呼ぶ。
・数学的に描出される実在を「外的実在」と呼ぶ。
・ここで呼ばれる「数学」とは、教育制度によって定義された範囲の学問ではない。
・ここで呼ばれる「数学」とは、数学的構造についての形式的研究を指す。
・すべての実在は数学的に描出可能である。
・それが意味するところは、すべての実在は数学的構造物であるということである。
・そのためすべての実在から成るすべての宇宙は、数学的構造物である。
・宇宙は数学である。これが数学的宇宙仮説である。

一般に、数学は物理法則を記述するために用いられる。宇宙は物理的構造物であり、抽象化のために数学が用いられるのだと考えられている。マックス・テグマークはそうではないと考えている。
数学的宇宙仮説では、物理と数学の関係は一般に考えられているものとは異なり、物理が数学を規定するのではなく、数学が物理を規定するのだと考えられる。テグマークによれば、物理法則が数学的に記述可能なのは、人類が発展させてきた数学理論や方程式が優れているからなのではなく、物理法則自体が、純粋に数学そのものだからだ。人類は、数学や物理学と呼ばれる学問において、思考の体系を作り上げてきたのではなく、宇宙の数学的性質の一部を「発見」してきたに過ぎない──テグマークはそう考えている。

そしてまた、テグマークによる「数学」の概念は、「この宇宙」のみにはとどまらない。
私たちが生きる、観測可能な「この宇宙」──私たちを中心とする球形の空間領域であって、ビッグバンによる発生から140億年のあいだにそこからの光が到達できた領域──と同様の構造を持つ並行宇宙は無数にあり、数学的宇宙仮説において、それらの並行宇宙の集合は「多宇宙」と呼ばれている。
多宇宙もまた、数学的構造物=数学そのものである──テグマークはそう主張する。テグマークは、ヒュー・エヴェレットが量子力学の多世界解釈によって導出した並行世界を、単なる思考実験ではなく、この宇宙と同様に数学によってかだとられた数学的構造物、すなわち、「実在」としてとらえているのだ。
これはどういうことか。順を追って確認してみよう。
まずは多宇宙について。

数学的宇宙仮説は、多宇宙を4つのレベルに分類している。
観測可能な領域に属する多宇宙はレベル1多宇宙と呼ばれ、レベル1多宇宙の無限個の集合はレベル2多宇宙と呼ばれている。
無限次元のヒルベルト空間に存在しうる、多世界解釈における並行宇宙の集合はレベル3多宇宙と呼ばれている。
すべての数学的構造であり、すべての宇宙そのものである、無数の基礎的な物理法則の集合は、レベル4多宇宙と呼ばれている。

レベル4多宇宙には多様な数学的構造が含まれている。
そこには「私たちの宇宙」とはまったく異なる数学的構造があり、形式体系があり、計算がある可能性がある。生命や惑星や銀河が存在しないどころか、光や重力が存在しない可能性すらも考えられる。クォーク、電子、光子の代わりに、別の粒子が存在しているかもしれない。
しかし、たとえ形式体系が異なったとしても、それは数学的に計算可能であると言え、そのためにレベル4多宇宙においても宇宙は数学的であるとすることができる。
これはどういうことか。
そこでは「同値性」という概念が用いられることで疑問が解消される。

同値性とは、「二つの記述について、すべての関係が保存されるような対応が両者の間に存在するとき、同値である」とすることのできる性質であり、たとえばチェスにおいて、駒の位置に関する二つの記述が、駒のサイズや駒の呼ばれ方がプレイヤーの母語によって異なることには左右されない、といった性質のことである。

こうした性質については、SF作家グレッグ・イーガンが長編小説『シルトの梯子』──この小説は別様の法則を持つ複数の物理体系同士が干渉し合い、互いの法則を侵犯し合うという、きわめて「数学的宇宙仮説」的なあらすじである──において、「サルンペト則」というSF的アイディアを用いて次のように書いている。

「サルンペト則はあらゆるグラフについて、それが別のグラフに変化する確率に量子振幅をあたえる。サルンペト則が予測するさまざまな事柄のひとつは、もしグラフに三つの三価の節点と三つの五価の節点が交互に並んだループが含まれているとしたら、そのグラフは、同じパターンを持つけれど隣接する節点の集合へ移動したものに変化する確率がもっとも高いだろう、ということだ。このようなループは光子として知られる。サルンペト則は光子が動くことを予測する(どっちへ? その確率はすべての方向について等しい。光子の方向を定めるには大きな手間を要する──ひとつの好ましい方向以外に動いた場合には、たがいに干渉し打ち消しあう無数の異なるバージョンを重ねあわせなくてはならないのだ)」

「ほかのパターンも同様な方法で伝播し、それらの対称性と相互作用は既知の素粒子のそれと完全に一致する。ありとあらゆるグラフはそれでも単なるグラフ──節点および節点相互のつながりの集合体──にすぎないが、ダイヤモンド内の傷は独自の生命を帯びる」

このように、たとえ形式が複雑だとしても──あるいは形式が異なるとしても──それが数学的性質を持つ構造物である限り、二値が属する集合にはパターン/構造の対称性があるために、それらのパターン/構造を特定することによって──その他の値が異なっていても──二値の同値性を特定することができるのだ。

なお、蛇足だが、『シルトの梯子』中盤以降では、宇宙の先にある宇宙の空間──「あちら側」と書かれる──において、「あちら側」の基礎的な物理法則がまったく異なるために、「こちら側」と「あちら側」の法則間の「同値性」を特定できないという状況が描かれ、それがSFの物語としてのサスペンスを生んでおり、非常に面白い。『数学的な宇宙』の次に読む本として、ぜひとも推薦したい。

「あちら側にあるものは」とイーガンは書いている。「もうひとつの真空──もうひと組の規則──ではないからです。それは発見すべきそのような古典的特性を持っていません。だからといって、それを各々がサルンペト則の別々の類似物に従う構成要素の和に分割できない──形式的、数学的に──というわけではない。けれど、わたしたちはどの特定の要素とも、わたしたち自身の真空との関係を同じようには相関することができないので、どの特定の規則の組を明らかにできる期待も持てないのです」

2.実在の三つのありかた、その他の実在論との接続について

次に実在について。
数学的宇宙仮説が正しいとすると、数学的構造であるのは時空だけではない。私たちをかたどっている素粒子も含め、時空中に存在するすべての実在もまた、数学的構造を持つ。
数学的に存在するすべての構造が、物理的にもまた存在するとすれば、宇宙に存在しうるすべての存在は、物理的にも存在しうる。
数学的宇宙仮説に基づけば、実在には相関主義的な性質を持つ位相と相関主義的な性質を持たない位相がある。

実在は、内的実在・合意的実在・外的実在の三つに分けることができる。
内的実在とは主観的に感覚されるもの、合意的実在とは物理学的に導出されるもの、外的実在とは数学的構造のことである。
数学的構造とは、各要素間に関係が定義されている抽象的な集合のことである。
数学とは数学的構造の形式的研究のことである。
数学的構造、形式体系、計算の三つは、互いに密接に関連している。
物理的実在を織りなすこの空間には、数十の純粋な数が刻み込まれている。

テグマークは物理的実在である宇宙が数学的構造物であることについて、主に以下の三つの点を論拠としている。

1.私たちの物理的世界の基本構造である「空間」は、その固有の性質として、次元、曲率、トポロジーなどの数学的性質しか持たない。その意味で空間は、純粋に数学的な対象物といえる。

2.私たちの物理的世界に存在するすべての「もの」は、素粒子からできている。しかし素粒子もまた、その固有の性質は数学的性質──電荷、スピン、レプトン数などの数──のみであり、その意味で純粋に数学的な対象物である。

3.私たちが住む三次元空間とその中の素粒子よりさらに基本的と考えられる存在として、波動関数およびそれが住むヒルベルト空間と呼ばれる無限次元の空間がある。粒子は生成も消滅も可能で、さらに複数の場所に同時に存在することもできるが、波動関数は現在、過去、未来のいずれにおいても一つで、ヒルベルト空間中をシュレーディンガー方程式に従って発展する。そしてこれら波動関数とヒルベルト空間もまた、数学的対象物である。

物理的実在は数学的対象物であり、時間や空間は数学的対象物であり、それらは純粋な数学的性質しか持っていない。ゆえに宇宙は数学的性質を持つ数学的対象物であり、数学的構造物であり、つまるところ数学そのものである。
そのため、原理的には数学そのものである宇宙の性質は、数学的手続きによって解析可能であり記述可能であり、理論的に永遠不変/普遍のものとして計算することができる。テグマークはそう考えている。

ところで、ここで現代の哲学における存在論/認識論に関する議論に目を向けてみたい。
相関主義の批判者であり、思弁的唯物論を提唱する哲学者、カンタン・メイヤスーは次のように言っている。
「私は、思考不可能なものは思考できない。しかし私は、思考不可能なものが存在することは不可能ではない、とは思考できるのである」
これは、マックス・テグマークの主張とも響き合う。
宇宙は観測されて存在するのではなく、ただ単に存在している。
観測可能な宇宙が存在するように、観測不可能な宇宙もまた存在している。
そこにあるのは別様の形式体系──メイヤスーならば「ハイパーカオス」と呼ぶ空間──であるものの、それが数学的構造物であることに変わりはない。
思考可能なものは実在する。しかし、思考不可能なものもまた、実在するのだ。

物理的実在とは、存在しうるすべてのものである。
そして、存在しうるすべてのものは、数学的に生成されている。
そのとき、数学的存在と物理的存在は同じものであると主張される。
思考され、数学的に記述される数学的存在である私たちは、そのとき同時に物理的存在であり、私たちは物理的な実在であることが定義づけられる。そのために、私たちはシミュレーションなどではなく、数学的宇宙仮説によってシミュレーション仮説は否定される。

数学的構造は、外的実在の記述ではなく、外的実在そのものである。
そのために、私たちは、意識という数学的構造物を持った、「人類」という名を与えられた数学的/物理的構造物として、実在していると言えるのだ。

グレアム・ハーマンは、「オブジェクト指向存在論」と呼ばれる存在論を提唱し、人間も含めたあらゆる事物は、相互に無関係なまま単に存在する「オブジェクト」であると主張しているが、これはテグマークの言う「数学的構造物」の概念に近いものだと考えられる。

ハーマンは言っている。
「オブジェクトとは、なんであれ統一性をもつ存在者である。世界のうちに存在するものも、たんに精神のうちに存在するものもオブジェクトである」

ハーマンの言う「オブジェクト」が、テグマークの言う「数学的構造物」に該当する概念だとすれば、途方もなく広大に思える宇宙の一つひとつもまた、テーブルや椅子、バナナの房や煙草の箱のような──あるいは、なんでもよい、あなたの目の前にある何かのような──独立した、一つの、なんの意味も理由もなく、ただ存在するオブジェクトに過ぎない。
数学的構造は宇宙を記述しているのではなく、宇宙そのものである。数学的構造は単にあるものであり、宇宙もまた単にあるものである。宇宙は時空間の中に存在するのではなく、時空間が宇宙の中に存在する。あるいは宇宙によっては時空間を持っていない。そこには別の何かが存在する。宇宙の間では、互いが何を持っていて何を持っていないかは知るよしもない。
すべての多宇宙は、孤独な並行宇宙をかかえながら、互いに観測不可能な状態で、ただ単に実在している。

3.塵の明滅としての多宇宙、あるいは言葉と言葉の関係について

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、短編小説「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」において、既存の認識とは別様の認識が既存の現実を書き換えていくさまを描いたが、数学的宇宙仮説における世界ではそうした「書き換え」は起こらない。宇宙は一つではなく、世界は一つではなく、現実は一つではないからだ。一つの現実が発生すれば、そうではなかった現実もまた、分岐する宇宙として同時に発生する。

別様の現実は別様の現実としてただ存在し、矛盾する世界は矛盾を残したまま、ただ並行して存在する。実際に、ボルヘスが書き換え前の現実と書き換え後の現実として想定したものを、私たちは矛盾するものとして知ることができる。それは、ボルヘスの書いた宇宙──書物の中の宇宙──が、私たちの生きる「この宇宙」よりも次元が低いものだからだ。

書物が数学的構造物であるために、私たちは書物よりも高次元の宇宙から、低次元の宇宙において実際に発生した実在として、書物の世界のできごとを認識することができる。

同様に、むろん私たちの生きるこの宇宙においても、思考可能なもの=計算可能なものは、思考可能なもの=計算可能なものとして存在する。しかしながら、ボルヘスの描いた宇宙のように、同じ次元の同じ宇宙において数学的/物理的法則と矛盾する実在が生成されるとすれば、それは、この宇宙に生きる私たちにとって思考不可能なものだろう。
私たちが秒速30キロメートルで太陽の周りを回転していることを直観的に把握できないように、分岐する宇宙の運動を、私たちは直観的に把握することができない。私たちは数式と呼ばれる数学的手続きによってのみ、そうした分岐を数学的に発見する。

しかし、「この宇宙」の「この私たち」が用いる「この数式」にも限界はある。「この数式」が「この物理法則」にあてはまるのは、「この宇宙」の「この数学」がこの物理法則そのものであり、この実在についての思考が可能なのは、「この思考」が「この実在」そのものだからだ。そしてそうした「この」の反復は同時に、「この」の先にある別様の宇宙を示唆している。それはあたかも、この先にある多宇宙が、無限の広がりを持つように。

宇宙の「書き換え」はない。より正確に言えば、たとえ仮に「書き換え」があったとしても、私たちはその「書き換え」を主観的に認識することはできない。この宇宙における数学はこの宇宙そのものであり、私たちはこれ以外の数学を知らない。あらかじめ知ることのできないように作られた構造を、私たちは知ることはできない。
私たちの知らない「この数学」以外の数学。分岐の果てにある別様の数学。私たちの知らないパターン・体系・手続き。そうしたものは数学的に存在しうる。数学的宇宙仮説が想定する多宇宙において、原理的に思考できないものは存在しうる。

無限があったとして、私たちは無限のすべてを汲み尽くすことなどできはしない。
「これは塵だ。すべてが塵なんだ」とグレッグ・イーガンは書いている。「すべてが塵なんだ。この部屋も、この瞬間も、地球各地に散らばり、五百秒かそれ以上の時間に散らばって──それでも、ひとつにまとまったままでいる。それが何を意味するか、わからないのか?」
光を反射させながら舞い落ちる無数の塵の一つひとつを、私たちはこの目で見ることができない。その明滅のパターンの一つひとつを、落下しながら描く軌道のパターンの一つひとつを。
すべてのメロディとすべてリズム、すべてのハーモニーとすべての周波数のパターンによって演奏された音楽を想像してみてほしい。それはすべての音ではあるが、私たちはもはやそれを、メロディとリズムとハーモニーのある音楽として聴くことはできず、私たちはそれを、単なる巨大な雑音の塊としてしか聴くことはできないだろう。
「想像してみろ……まったくなんの構造も、かたちも、連続性ももたない宇宙を。微細な事象の群れ──時空間の破片のようなもの──だけが存在するが、ただし、時間も空間も存在するわけではない。さて、ある一瞬に空間の一点を特徴づけるものはなんだ? 素粒子の場における数値、ひとにぎりの数字にすぎない。では、そこから、位置と配列と順番の概念を除いたら、なにが残る? ランダムな数字の群れだ」

あるいは、一つの升目に書きつくされた文字列。塗りつぶされた升目。黒い四角形。
「塗りつぶされているが故に、」と円城塔は書いている。「そこには何もかもが記されている。「■」が全ての文字を包含しているという単純極まりない理由によって。ただの■さえもが過剰であり、ただ「・」の中にさえ顕微鏡を用いて無限の文章を勝手に読み取ることが許されているように。決して零次元ではないというだけのほんのささやかな広がりだけから、全ての文章は保障されうる」

そうは言ってもただ単に見るだけでは、私たちはそれを、あらかじめ塗りつぶすことを目的として塗りつぶされた、真っ黒な正方形の図形としてしか認識することはできないだろう。

先の引用文の作者はまた、異なる作品で、「全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている」と書いている一方、そこから続く文は次のようなものとなっている。「しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保証は全くのところ全然存在しない。これがあなたの望んだ本です、という活字の並びは存在しうる。今こうして存在しているように。そして勿論、それはあなたの望んだ本ではない」

しかし、そこから何かを読み取れと言われれば、何かを読み取ることはできるかもしれない。そして私たちはつねにすでに、この宇宙において実際にそう求められ、実際にそうしている。
「わたしというパターンが、この世界で生じているほかのあらゆる事象の中から、それ自身を識別できるのなら……わたしたちが、宇宙と考えているパターンが、まったく同じ様にしてそれ自身を組みあげ、それ自身を認識していると考えて、なにが悪い? もしわたしが、あまりに広範囲に散らばっているために、なにかの巨大でランダムな数字の群れの一部としか思えないデータを継ぎあわせて、自分自身にとって首尾一貫した時空間を作りだしているのなら……おまえもまったく同じことをしているのではないと、なぜいえる?」

私たちという数学的構造物はみな、そのような認識パターンを伴う構造物である。
思考可能なものと思考不可能なもの、そのあいだには、数学的/物理的制約が働いている。
しかしながら、隣の並行宇宙ではどうだろう。おそらくそこでは、別様の数学と別様の思考、別様の物理法則を持った私たちが、異なる実在について語っている。

「わたしたちは、ある事象のとりあわせのうちの、さらにひとつの組みあわせかたを知覚し、そこに住んでいる」とイーガンは続けている。「しかし、その組みあわせが唯一無二だという道理がどこにある? わたしたちの認識するパターンが、塵を首尾一貫したかたちで並べる唯一の方法だと信じる理由はない。何十億という別の宇宙が、わたしたちと同時に存在しているにちがいない──それはすべてまったく同じ材料でできているが、並べかただけが違う。もしわたしが、数千キロ離れ、数百秒を隔てた事象を、隣りあい、かつ同時に存在するものとし知覚できるなら、わたしたちが銀河じゅう、宇宙じゅう散らばる時空間の点だと考えているものから作りだされた世界や生物も、存在しうるはずだ。わたしたちは、巨大な宇宙的アナグラムの、ありうる解答のひとつだ……だが、わたしたちが唯一の解答だと信じるのは、馬鹿げている」

別様の宇宙の別様の私たち。
そのときおそらく私たちは、もはやこの私たちではないかもしれない。私たちだったはずの身体は失われ、私たちだった意識は失われている。私たちは、ありえたはずの宇宙で、ありえたはずの私たちを生きているのだ。この私たちはその私たちを認識することはできないかもしれない。その私たちはこの私たちを認識することはできないかもしれない。しかし、そうした私たちもまた現に存在し、生きて、息をしているのだ。この宇宙でこの私たちがそうしているように。数学的宇宙仮説においては。

この宇宙には存在するものがあり、存在しないものがある。
しかしながら、存在すると同時に分岐した存在しない可能性が、並行宇宙には存在している。
存在しない場合にも同様に、存在しないと同時に分岐した存在の可能性が、並行宇宙には存在し、分岐の先で、「ここ」にはないものが、「そこ」にはあるのだ。手触りのある「実在」として。
そのために、「思考不可能なものは思考できない。しかし私は、思考不可能なものが存在することは不可能ではない、とは思考できるのである」と言ったメイヤスーと、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と言ったウィトゲンシュタインは、数学的宇宙仮説においては矛盾しない。
語り得ぬものについては語り得ないが、それはたしかに存在し、沈黙するとは別の仕方で、存在することを示唆することはできるのだ。
思考によって。
数学によって。

相関主義によってとらえられる実在と、相関主義によってはとらえられない実在が、すべての可能な宇宙には同時に存在している。
この宇宙には存在しない実在が、別の宇宙ではたしかに存在している。
あるパターンを伴い、計算可能な形で、数式として、物理的実在として。
枝分かれする数式の果てに、無限に近く無数に。

「故郷の宇宙で送った人生のほかのあらゆる部分は、とてつもないスケールの旅の中に拡散して意味を失っていたけれど、時間を超越したこの世界は、いまも完璧に意味のあるものだった」

つまるところ、すべては数学なのだ。
そしてそこには──あらゆる時間、あらゆる空間には──完璧な意味がある。
そう。
あなたや、あなたの家族やあなたの恋人、あなたの友人、あなたの出会ってきた人々、あなたの見るもの、あなたの聞くもの、あなたの触れるもののすべてを含む、ここにある、あるいはここにはない、すべての数学的構造のすべてが、すべての宇宙そのものであるがゆえに。

最後に、一つの比喩を用いることをお許しいただきたい。
数学的宇宙について、私にとって最も卑近な比喩。
数学と宇宙、実在についての比喩。
比喩として用いられる形式体系。
その形式体系は、「言葉」と呼ばれている。

ここに至るまでに、本稿では多くの言葉を引用してきた。
それらの言葉は異なる人物によって、異なる言語体系で、異なる時間に、異なる場所で、異なる思考に基づいて書かれてきた。
書かれた言葉は、本と呼ばれる宇宙に閉じ込められている。
それらの宇宙は自らの内に完結しており、自分が並べられた本棚の、隣の本/隣の宇宙にどのような言葉が書かれているかは知るよしもない。
しかしながら、本たちは互いが存在していることを知っている。
自分以外にも本が存在すること、言葉による宇宙は、一冊の本の外にも広がっていることを、言葉たちは知っている。
そしてそれは、「引用」によって実現されている。

引用。
並行宇宙からの法則体系の侵入。
実在する、他なる者との邂逅。
内にある者と外にある者たちの、インクを媒介に、紙片を舞台にした、ファースト・コンタクト。

言葉たちは、鍵括弧にくくられ、引用され、突如挿入された、外部からの、見ず知らずの言葉たちが、言葉である自らと自らの属する宇宙とは異なる形式体系を伴うことを知っている。しかしながら、それは自分たちと変わらぬ言葉であることも同時に知っている。
それは同値性によって実現される。
それは構造によって実現される。
言葉は言葉が言葉であることを知っている。たとえそれが自分とは異なる姿をしている言葉であろうと。
なぜなら、言葉もまた一つの数学体系には違いなく、引用された言葉も、そうでない言葉も、数学であることには変わりはないのだから。
人であり、そして素粒子の集合である、数学的なあなたが数学的なあなたであるように。

物語と宇宙は似ている。
言葉と数学は似ている。
それらは異なる場所から、互いを指し示し合っている。

言葉は言葉を読んでおり、言葉は言葉に干渉する。
書かれた言葉は書かれる言葉に、書かれる言葉は書かれた言葉に干渉する。
言葉は書かれ続け、書かれるための言葉は生まれ続けている。
まるでそれは、インフレーションの過程にあるこの宇宙が、量子の波にゆらぎながら広がっていくように──数学的な宇宙が、その構造を保ちながらも、無数の枝葉に分岐していくように。
あるいは今、私がこの一文を書きながら、次の一文を考えているように──それとも今、あなたがこの一文を読みながら、頭の中では異なる文を、異なる意味を、異なる光景を、思い描いているように。

そして言葉たちは、本の外にもまた本が、宇宙の外にもまた宇宙があることを知り、すべての本/すべての宇宙が、無数の多様な言葉たちによって書かれていることを悟るのだ。
たとえそれが、一冊の本の内では語り得ぬものだったとしても。

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【参考・引用文献】
・松原隆彦『宇宙に外側はあるか』、光文社、2012年
・マックス・テグマーク『数学的な宇宙』谷本真幸訳、講談社、2016年
・グレッグ・イーガン『シルトの梯子』山岸真訳、早川書房、2017年
・グレッグ・イーガン『ディアスポラ』山岸真訳、早川書房、2005年
・グレッグ・イーガン『順列都市 上』山岸真訳、早川書房、1999年
・カンタン・メイヤスー『有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論』千葉雅也訳、人文書院2016年
・グレアム・ハーマン『オブジェクト指向哲学の76テーゼ』飯森元章訳、2016年
・ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』鼓直、岩波書店、1993年
・円城塔『Self-Reference ENGINE』、早川書房、2007年
・円城塔「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」(『虚構機関 年刊日本SF傑作選』所収)東京創元社、2008年
・佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生』、慶應義塾大学出版会、2014年
・なお、数学的宇宙仮説に対する批判論文を、SF作家の草野原々氏が抄訳・要約し紹介している。
そちちらもあわせてご参照いただければ、本書をより楽しくお読みいただけるはずである。

【論文要旨】宇宙は数学ではない/『「数学的宇宙」へのいくつかのコメント』(草野原々)