資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい。

──マーク・フィッシャー

世界の終わり、失われた未来の亡霊

K-Punk。横に並んだ6つの記号。一見すると無意味な文字列。
解を急げばKはKyberの頭文字、KyberはCyberの起源となったギリシャ語で、つまるところK-Punkとは「サイバー・パンク」を意味している。Kyber-PunkとしてのCyber-Punk。さしずめそれは「真のサイバー・パンク」、あるいは「原理主義的サイバー・パンク」とでも訳せるだろうか。
しかしながら、その言葉は何よりもまず、マーク・フィッシャーのブログの名として知られている。

マーク・フィッシャー。理論家。批評家。それからブロガー。
抵抗としての批評と、そしてその先にある、出口のない無力と絶望について徹底的に思考した著述家。
彼は2000年代から2010年代におけるK-Punk名義でのブログ執筆活動のほか、1990年代にはD-Generationと名づけられたテクノ・ユニットにおいて音楽活動を展開した。
あるいは1990年代のウォーリック大学で──今では右派加速主義の始祖として知られる──ニック・ランドやセイディー・プラントとともに、「サイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit, CCRU)」と呼ばれる研究グループの設立に参加し、現代思想やSF、映画やテクノミュージック等を混交した、学際的で横断的な言論を展開したことでも知られている。

本書『資本主義リアリズム』の著者である、イギリス生まれ・イギリス育ちのその書き手は、1968年──文化と政治の時代──に生まれ、1980年代と1990年代──マーガレット・サッチャーとネオリベラリズムの時代──に青春時代を過ごし、そして2017年──ビジネスとマネジメントの時代──に、自らの手でその生涯を終えた。
妻が彼の亡骸を発見したとき、彼は48歳だった。それは彼の最後の本となった『怪奇と不気味(The Weird and the Eerie)』が出版される直前のことだった。そのとき彼は新しい本に手を着けはじめてさえいた。『アシッド・コミュニズム(Acid Communism)』と題される予定だったその本は、1960年代のカウンター・カルチャーを中心に、彼が生涯魅了された、映画や音楽などのポップカルチャーについての記録と記憶をまとめたものとなるはずだった。本は未整理のまま──代わりにK-Punk名義で投稿された無数のブログ・ポストや、エッセイや、インタビューや、書きかけの草稿の断片が集められた未完のアンソロジーとして──『K-Punk──マーク・フィッシャー作品集 2004-2016(k-punk: The Collected and Unpublished Writings of Mark Fisher(2004–2016))』と題され出版された。彼の死の翌年、2018年のことだった。

死によって、彼は彼自身の未来を自ら永遠に奪った。
けれど本当は、それよりもずっと前から未来は失われていたのだとも言える。
『資本主義リアリズム』の中で、マーク・フィッシャーは「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」と書いている。そして彼は実際に世界の終わりを想像していた。彼は資本主義の終わりについて書くことはできなかったが、世界の終わりについては書くことができた。彼は「ノー・フューチャー2012(No Future 2012)」と題されたブログ・ポストの中で、終わったあとの世界を、次のように描写している。

未来はどこにもない。
その未来のなさは、かつて期待されていたものですらありえない。
私たちは今、雑草の生い茂った、リーバレーの工業地帯を歩いている。
それはまるで世界の終わりのようだった。
いや、実際のところ、世界はとうの昔に終わってしまっていたのだ。
人類のいなくなった世界では、打ち捨てられた工場とゴミの山が連なっている。
牧草や水藻が、まるで人工的に象られたかのような、分厚い層を形成している。

K-Punk。マーク・フィッシャー。カウンターカルチャーの時代に生まれ、ネオリベラリズムの時代に育ち、資本主義リアリズムの時代を戦った彼にとって、未来とはとうの昔に奪い去られた幻のようなものだった。かつて夢見られた未来はどこにもない──彼はそう考えていた。未来はなく、もうやってくることはない、かつて未来だったものの幻影の中で私たちは戯れているにすぎず、私たちは失われた過去の亡霊に憑かれているのではなく、失われた未来の亡霊に憑かれているのだ、と。

『資本主義リアリズム』は2009年に発表された。今は2019年──それから10年が過ぎた。今では、失われた未来の亡霊に取り憑かれていたのは彼だけではないことがわかっている。2019年の都市には失われた未来の音楽が流れ、失われた未来のテレビ・コマーシャルが流れている。リバイバル・ファッションがショーウィンドウを飾り、テクノロジーが「明るい未来」を語らなくなって久しい。未来に向けて約束されたものは何もない。未来はとうに死んでいる。
亡霊は、今では都市全体を覆い尽くしている。

拡大する闘争領域とその欺瞞

『資本主義リアリズム』。タイトルとなったその言葉はマーク・フィッシャーの言葉ではない。それはスラヴォイ・ジジェクとフレドリック・ジェイムソンの二人の思想家の理論を補助線としている。本書は、古典的とも言える資本主義への認識──自己保存と自己拡張を永久に繰り返すシステムであること──を再確認し、資本主義があらゆる事象に浸透していった過程とその結果、資本主義のオルタナティブについての思考することさえも奪われた、出口のない現代について描出する。「資本主義リアリズムとは、「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態」のこと」なのであり、それは自らを普遍的な法則として定義し、私たちにそれに従うことを求める。
それはまさにミシェル・ウエルベックが描く「拡大する闘争領域」のように、変幻自在に姿形を変えながらあらゆる場所に浸透し、拡大し、私たちに「あらゆる分野での闘争」と「勝利のための不断の努力」、それからそうした「闘争領域」への参加に対する「服従」を強いるものだ。
あるいはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの〈帝国〉を持ち出してもいいだろう。すべては符号化され、管理可能な単位に分解され、接続され、組織化され、境界を超えてネットワーク化され、ビッグデータとして解析され、次なるマーケティング施策のためにマネジメントされる。資本主義リアリズムはそれを所与の前提として取り扱い、ニヒリズムによって再帰的に強化する。
そこには逃げ場はない。出口はない。そこではあらゆるものが値付けされ売買される。青春は商品になり、恋は商品になり、性愛は商品になる。誰もが「私を買ってください」と主張し、自分の持つ何かを切り売りしながら生きている。
たとえば筆者も、まさに今この瞬間に、思考と呼ばれるある種の情報を切り売りするために、この文章を書いている。
「資本主義リアリズム」とは要するに、生きることの不可避な売春性について、不可避であると信じさせられていることを指す。
そして『資本主義リアリズム』という本は、そうしたリアリズムの欺瞞を暴く/暴こうとする──抵抗のための書物である。
『資本主義リアリズム』は主張する。

資本主義リアリズムがこうも網羅的で、現在の抵抗の形がこうも絶望的かつ無力であるのなら、実のある異議申し立てはどこから来るのだろう? 資本主義がいかに苦しみをもたらすかを力説するモラル的な批判は、資本主義リアリズムを増長させるだけだ。貧困、飢餓、戦争は、現実の避けられない一面として描かれ得るが、こうした苦しみを無くせるかもしれないという希望となれば、しばしばナイーブなユートピア主義のレッテルを貼られてしまう。資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの「現実主義」が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすることだ。

マーガレット・サッチャーはかつて「この道しかない」と言った。しかし本当に「この道しかないのか?」と本書は問いかける。
「この道しかないのか?」。本書の副題にも掲げられているその言葉について、フィッシャーは「ノー」と断言してみせる。そして本書においてもいくつかの解答を与えている。たとえば「官僚主義からの離脱」、そして「公共サービスのビジネス・オントロジーからの解放」、それから「メンタルヘルスを政治闘争の場とすること」
そして本書は次のような希望の言葉でしめくくられている。

歴史の終わりというこの長くて暗い闇の時代を、絶好のチャンスとして捉えなければならない。資本主義リアリズムの蔓延、まさしくこの圧迫的な状況が意味するのは、それとは異なる政治・経済的な可能性へのかすかな希望でさえも、不相応に大きな影響力を持ち得るということだ。ほんのわずかなできごとでも、資本主義リアリズム下で可能性の地平を形成してきた反動主義の灰色のカーテンに裂け目を開くことができる。どうにもならないと思われた状況からこそ、突然に、あらゆることがふたたび可能になる。

かつてそこには希望があった。
資本主義のオルタナティブとして、別様の未来が切り開かれる可能性が描かれていた。
それはマーク・フィッシャーの描いた一つの夢だった。それは現実ではなく夢だったが、少なくとも論理的な夢だった。それは十分に現実化し得ると言えるものであり、十分に、現実化に向けて検討する価値があると言えるものだった。
しかしながら、それを描いたフィッシャーは死んだ。別の道が現実化するのを見る前に。
今ではフィッシャーはおらず、未だオルタナティブは現実化していない。
NIRVANAのカート・コバーンについて、フィッシャーは「(コバーンにとっては)成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ」と書いたが、彼自身もまた、そうした逆説──パンクロックでロック・スターになることはパンクではないという逆説──と類似の構造にからめとられ、存在論的不安に苛まれていたように思える。再帰的無能感。闘争領域の拡大。すべてに経済競争が強いられるということ。生きることの不可避な売春性──彼自身はそれらの欺瞞を暴くことはできたが、戦い抜くことはできなかった。

メンタルヘルスとセルフ・ヘルプの精神

生前、フィッシャーは重い鬱病を患っていた。生涯を通して希死念慮と戦っていた。彼はメンタルヘルスと資本主義の関係について考えていた。彼は鬱とともに生き、彼は鬱とともに、資本主義の時代に生きることの、その不可避な売春性について書き続けていた。
「メンタルヘルスはなぜ政治的課題か(Why mental health is a political issue)」と題された論考で、彼は「鬱病の増加は、現代を覆うアントレプレナーシップの負の側面だ」と書いている。「自主自立の精神を強要された者が、突き進んでいった先で壁にぶち当たったとき、何が起こるだろうか──誰も助けてはくれない。与えられるのは非難だけだ。オリバー・ジェームスの『利己的な資本主義者』にあるとおり、アントレプレナーシップのファンタジーに覆われた世界では、勝者だけが存在価値があるのだと教えられる。そして、勝者には誰もが──身分や民族やあらゆる社会的背景は関係なしに──努力次第でなれるのだと教えられる。勝てなければ孤独と非難が待っている。そして今や、あらゆる場所で同様の構造が見られるようになっている。今やストレスさえもが民営化されている。私たちはそうしたストレスの民営化に抵抗し、メンタルヘルスを政治的課題として認識し、強く訴え続けていかなければならない」

現代の鬱病に関する研究は、鬱病が「気の病い」ではなく「脳の病い」であると──脳内における物質論へと「素朴に」還元しうるのだと──今なお盛んに主張している。現代の鬱病の臨床・研究現場は、「モノアミン仮説」と呼ばれる仮説──鬱病とは、神経伝達物質のうち、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンといった、モノアミン類と呼ばれる物質の均衡が、一時的に崩れることによって発生する病いであるという仮説──に、ほぼ支配的に覆われている。
心療内科や精神科に行って鬱病と診断されれば、レクサプロなどの抗鬱剤が処方される。神経伝達物質の量によって病いが引き起こされているのならば、薬によって神経伝達物質の量を操作すればよい、というわけだ。
本書においてもフィッシャーは、メンタルヘルスについて多くの言を費やしている。たとえばそれは次のようなものだ。

現在において支配的な存在論では、精神障害に社会的な原因を見出すあらゆる可能性が否定される。この精神障害を化学・生物学化していく潮流はもちろん、精神障害の脱政治化と厳密に相関している。精神障害を個人の化学的・生物学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。第一にそれは、個人を孤立化させようとする資本の傾向を強化させる(あなたが病気なのはあなたの脳内にある化学物質のせいです)。第二にそれは、大手の多国籍製薬企業が薬剤を売りさばくことのできる、極めて利益性の高い市場を提供する(私たちの抗鬱薬SSRIはあなたを治療することができます)。すべての精神障害が神経学的な仕組みによって発生することは論を俟たないが、だからといってこのことはその原因について説明するものではない。例えば、鬱病はセロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。そしてもし左派が資本主義リアリズムに異議申し立てを試みたいのであれば、精神障害を再政治化していくことが緊急の課題になるだろう。

神経伝達物質の均衡が崩れたとしても、「なぜ神経伝達物質の均衡が崩れたのか」ということは考慮されない。それが引き起こされた契機──資本から要請されてのあからさまな過労、あるいは親しい人々との別れや出会いのようなライフイベント──が、十分に取り扱われているとは言いがたい。人生の苦難にともなう不安感や焦燥感、無力感や絶望も、鬱病の発症の大きな要因となっているには違いない。
しかしながら──鬱病は明らかに個人と社会との摩擦によって引き起こされるものであるにも関わらず──精神科医療は、鬱と社会的・社会心理的要因との因果関係ないし、関連について検討することはない。患者の直面する根本的な問題に対処する、あるいは対処を支援する姿勢はほとんど見られない。それは彼らに与えられた仕事が「病気を治す」ものなのだから当然で、彼らからすれば「社会課題について考察するのは自分たちの仕事ではない」ということになる。壊れたネジを直してふたたび工場に届けるのが彼らの仕事なら、ネジが壊れる工場で何が起きているかなど、彼らが知ることもなければ知る必要もない。ネジは壊れ、彼らは直し、直したネジを工場に送り返す。ネジはふたたび壊れ、彼らはふたたび直し、ふたたび工場に送り返す。ネジは壊れる。彼らは直す。ネジは壊れる。繰り返し。

サッチャー以降の世界では、そうした問題は社会的に解決されるものではなく、あるいは他者の支援を必要とするものではなく、「セルフ・ヘルプ=自助努力」によって解決されるものだとされた。
健康を崩すのはセルフケアが足りていないのである。成功できないのは自己啓発が足りていないのである。あらゆるものごとにはマネジメントが適用され、マネジメントによって成功に導かれる。そうでなければマネジメントが足りていない。マネジメント・スキルが足りていない──スキルとは努力によって身につけられるものであり、スキルが足りていないということは要するに、あなたの努力が足りていない──のだ。
人生の失敗はすべて自己責任であり、患者が鬱病になったのは自己責任であり、それは自助努力によって解消されるものである──資本主義リアリズムの中で幾度も反復されるあの言葉が、ふたたびここでも反復される──「自分が変われば世界が変わる」のだと。
反復されるその声は、資本主義を駆動する原理でもある。サッチャーはその原理を完全に理解し、完全に信仰し、自国民にもその信仰を強いた政治家だった。その原理は古くから、プロテスタンティズムと呼ばれている。そして「資本主義リアリズム」とは、プロテスタンティズムの現代版──ポップなアップデート版であるのだと筆者は理解している。

サッチャーは敬虔なプロテスタントの家庭で生まれ育った。マックス・ヴェーバーの古典『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、プロテスタントたちの勤勉で質素な精神──まさにセルフ・ヘルプに重きを置く、自罰的で合理至上主義的で個人の努力を尊ぶ思想──こそが資本主義を生んだのだという。サッチャーは、まさしくヴェーバーの分析の通り、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に骨の髄まで浸りきり、そしてそれを社会に敷衍させたのだと言える。

資本主義リアリズム。
プロテスタンティズムはそう名前を変えて、今なお健在で、「リアリズム=現実主義」となってさらに強化され拡大されている。
そこでは怠惰であることは許されない。非合理的であることは許されない。他者に助けを求めることは許されない。代替案は存在しない。逃げ道はない。すべての失敗は自業自得であり、そして失敗は許されない。成功することだけが成功することとして見なされ、成功することだけが許容される。そこでは、資本主義への貢献だけが人生の成功として許容される──私たちは「資本主義リアリズム」の中で、そう思い込まされている。
無限の競争の中で敗者が生まれ、敗者は退場を余儀なくされる。敗者は諦観に苛まれている。無能感に苛まれている。絶望だけが口を開けて待っている。自殺者が増えている。現実はそこにしかない。現実はそうでしかありえない。「自分が変わることで世界を変える」しか、生き残る道は用意されていない──それが「資本主義リアリズム」だ。
しかしながら、それは現実(リアル)そのものではなく現実主義(リアリズム)なのであり、一つの主義=思想である。そしてそれは言い換えれば一つの信仰にすぎない。プロテスタンティズムが一つの信仰であるように。
あるいはそれ自体が、一つの病いであるととらえることもできるだろう。

レクサプロの時代の愛

マーク・フィッシャーが設立に関わった「サイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit, CCRU)」からの影響を明言する音楽家、Oneohtrix Point Never/ダニエル・ロパティンは、2018年に’Love in the Time of Lexapro’というタイトルのEPを発表した。『レクサプロ(=抗鬱剤)の時代の愛』とも訳せるこのタイトルは、言うまでもなくガブリエル・ガルシア=マルケスの代表作『コレラの時代の愛(Love in the Time of Cholera)』のもじりであり、かつてコレラに象徴された大量死を引き起こす病いは、現代ではメンタルヘルスに取って代わられているということなのだろう。
そしてマーク・フィッシャーの思想を踏まえれば、レクサプロを用いたメンタルヘルスへの個別のマネジメントを必要とする、現代という時代の最大の病いとは、つまるところ資本主義だということになる。

資本主義という思想は、一種の拡散される非細胞性生物であり、それはウイルスのアナロジーでとらえることができる。資本主義という名のウイルスは人々の資本への信仰と諦観によって拡散し蔓延する。
サッチャーは「この道しかない」と言って人々の信仰と諦観を煽った。そしてその結果、「資本主義リアリズム」が──「この世界には資本主義しかありえない」という幻想が、妄想が、病いが──イギリス中を、あるいは世界中を覆っていった。
大量死をもたらす現代の病いは、コレラという病原菌ではなく資本主義というウイルスによって引き起こされる。マーク・フィッシャーは本書の中で「本当にこの道しかないのか?」と疑問を呈する。繰り返すが、メンタルヘルスの病いは、資本主義というウイルスによる、ウイルス性の病いなのだ。そしてそのウイルスによる被害は拡大を続け、世界中で大量死を引き起こしているがゆえに、「災禍」として指摘される。本書の中で、資本主義リアリズムの「災禍」は次のように描かれている。

災禍は、「これから起こるもの」でもなければ、「すでに起こったもの」でもない。むしろ、今まさに私たちはその中を生き抜こうとしているのだ。災難がある特定の瞬間に訪れることもなければ、世界は大きな爆発で終わるわけでもない。その姿は徐々に潰れ、消え、崩壊していくのだ。何が災難を招いたのか、誰にもわからない。害悪な存在の気まぐれとでも思えるほど、その原因は現在から切り離され、遠い過去のものになっている。負の奇跡、いくら後悔しても解けない呪い。そんな破滅的な状況は、呪いの起源となったものと同じくらい予測不可能な何かによってしか、和らげられることはない。行動は無駄であり、意味のない希望にだけ意味がある。

マーク・フィッシャーは資本主義リアリズムの欺瞞を暴いた。しかしそのウイルス性の病いに憑かれて死んだ。始まりつつある「災禍」──資本主義によって、原理的に〈加速〉されるメンタルヘルスの問題──に巻き込まれて死んだのだ。世界は少しずつ終わりに向かっていく。誰もが意味のない希望の中で意味を感じ、無意味な行動を繰り返して死んでいく。資本主義は終わることはない。最後の一人に至るまで、災禍は続いてゆく。私たちはその様子を眺めることしかできない。資本主義リアリズムは私たちに、そうした思考を要請する。
しかしながら、今ここにいる私たちは、まだ生きている。
生きている私たち。残された私たちは、そうした病いとどのようにして戦うことができるのだろうか。
何もできはしない。ここにあるのは絶望だけだ。災禍はすでに到来しており、それは大いなる流れだ。私たちは抵抗することなどできはしない。そうではない。ここにあるのは災禍の兆候だ。炭鉱のカナリアが鳴いている。私たちはその鳴き声を聞くことができる。カナリアはもう鳴いている。聞こえないだけだ。聞こうとすることはできる。
「ノー・フューチャー2012(No Future 2012)」で、K-Punkことマーク・フィッシャーはこう書いている。

夢想家だけが、写真の中に埋め込まれたものを見ることができる。
けれど、たとえ彼であっても、隠された徴候のすべてを見つけ出すことはできない。
多くの写真は鏡のように、過去を凍った現在に投影する。
ときどきそこに、不可解な時間の運動──来るべき物事の痕跡──を見つけ出すことのできる者がいる。
未来は過去に向かって血を流している。
辿り直すことでしか気づくことのできない前兆。
警告文は既に書かれているものの、読める者は誰一人としていない。

たとえば「ロコのバジリスク」という考え方があり、そこでは未来に存在する超越的な知性体が「自らの存在を成立させるために過去の人類に呼びかけている」とされる。
未来は既に決定されており、未来は既に決定されているがために、過去の存在である現在の人類の存在が可能になる――ロコのバジリスクはそうした想像を喚起する。
人類は未来の超越知性体によって存在の可能性を担保されており、人類は自らの存在可能性を確保するために、未来の超越知性体の成立に向けて、その技術文明を「加速」させている。資本主義によって、アントレプレナーシップによって――メンタルヘルスの問題を、レクサプロを飲んでごまかしながら。
それが本当に人類にとって良いことなのか悪いことなのかはわからない。しかしながら、いずれにせよ、未来は既に決定されている。「未来は過去に向かって血を流している」のだ。

わたしたちはそれに気づくことはない。
しかし、警告はすでにある。
それがあとから見出されるものであったとしても。
それでもなお、ここには警告がある。
たとえそれが、誰にも読めない警告だったとしても。
コレラの時代の愛からレクサプロの時代の愛へ。
今では夢想家だけが愛を語る。資本主義の外にあるものを語る。
今では夢想家だけが、過去となった未来が辿る、それらの痕跡を──レクサプロの時代の愛を──見つけ出すことができるだろう。

【参考・引用文献】

・マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版

・K-Punk “NO FUTURE 2012″(本文引用箇所の日本語訳は筆者によるもの)
http://k-punk.abstractdynamics.org/archives/010368.html

・Hua Hsu “Mark Fisher’s “K-Punk” and the Futures That Have Never Arrived”, ‘THE NEW YORKER’
https://www.newyorker.com/books/page-turner/mark-fishers-k-punk-and-the-futures-that-have-never-arrived

・Simon Reynolds “Mark Fisher’s K-punk blogs were required reading for a generation”, ‘The Guardian’
https://www.theguardian.com/commentisfree/2017/jan/18/mark-fisher-k-punk-blogs-did-48-politics

・Mark Fisher “Why mental health is a political issue”, ‘The Guardian'(本文引用箇所の日本語訳は筆者によるもの)
https://www.theguardian.com/commentisfree/2012/jul/16/mental-health-political-issue

・Mal d’archive「人工知能はロシア宇宙主義の夢を見るか? ――新反動主義のもうひとつの潮流」http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2018/09/15/211236h