「それはなにかの引用ですか?」
「たしかに。もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません」

「これがわたしの作品です」と彼が言った。
わたしはそれらのキャンパスを注視し、一番小さいもののまえで、立ちどまった。それは、落日を表現、いや、暗示しており、なにか無限のものを包蔵していた。
「もしお気に召したら、未来の友人の記念に持って行ってもいいですよ」と、彼はごく当たり前の口調で言った。

わたしは礼をのべた。しかし、別のキャンパスが心にひっかかった。空白とはいえないが、空白に近いものだった。
「あなたの昔の目には見えない色で描いた画ですよ」
繊細な手が、竪琴の絃をかきならしたが、とぎれとぎれの音しか聞きとれなかった。

──ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』より

12の不可避な事実。予告された生成の記録。
最初に書物が現れる。あなたはそこに入り込む。存在するはずのない、しかしそれでもなお存在する、どこを見ても最初でなく、最後でもない、無限であり、周期的であり、全宇宙的である無数の書物の中へと散りばめられて。
ホロス。観測された、すべての書物の集合。あるいはそれはこうとも呼ばれる──ユニバーサル図書館。その図書館は永遠を越えて存在する。ガラスと銅、それから電波によって接続された神経網。この宇宙に存在するすべての時間、すべての地点、すべてのプロセス、すべての人々、すべての人工物、すべてのセンサー、すべての事実とすべての概念がつなぎ合わされた、想像不可能なほどに複雑で巨大なネットワークの集合体。ハイパーリンクとハイパーリンクが交差する、絶えず動く家。穿たれ閉じる、無数の窓。
そこに住まうわたしたちは、空間のいかなる地点にも存在する。書物は時間の中で旅をする。そこにはもはやピリオドはなく、コンマもなく、アルファベットであることも、そもそも言語であるとも限らない。図書館には、書物や新聞や雑誌のほかに、古今東西のあらゆるアーティストが生み出した絵画、写真、映画、音楽、ビデオゲームが収蔵されている。あるいはすべてのテレビやラジオの放送番組やCMも。もうオンラインでは見られない何十億もの昔のウェブページや何千万もの消されたブログポストも──わたしたちの時代のはかない創作物として──保管される。シュメール人たちが粘土板に刻んだすべての文字列、3億1000万冊の書物、14億のジャーナル、1億8000万のポップ・ソング、3兆5000億のポートレート、33万本のフィルム、10億時間分のテレビドラマやアニメーション、60兆の公開されたウェブページ、購買履歴や発言履歴、移動、行動、振る舞いや、それから医療データ、ゲノムデータに至るまで──つまりは、人類が生み出してきたすべての作品、すべての履歴、人類の歴史が始まって以来のすべてのものが、すべての言語で、すべてのコードで、すべての人に向けてつねに開かれる。あらゆる時空のあらゆる座標で。

そこにはすべての意味でのすべてがある。そこではすべてが存在している。存在するということは持続するということで、そこではつねに、すべてのできごとに対するメンテナンスがほどこされる。
生起する図書館。未だ建設途上にある、永遠に未完の、データによって明滅する網状の宇宙──ドキュバース。そこではすべてが生成し、認識され、流動化し、可視化され、接続され、共有され、選別され、混在し、相互作用し、追跡可能な形で、問いを含み、問いに含まれ、とうに失われた始めの始まりから始まりを含み、始まりながら始まりが始まっていく。ビットでできたその図書館は、過剰に動きたがり、過剰にリンクされたがり、過剰にリアルタイムで気づかれたがり、過剰に複製され、過剰に模倣され、過剰に二次創作として拡散されたがり、過剰にメタ情報になりたがる。遺伝子が利己的で、利己的な遺伝子が自らを複製することを望むように、デジタル宇宙の遺伝子たるデータもまた利己的で、利己的なデータは自らを複製し拡散するための〈図書館たち〉を求めて漂う。テクニウムが分岐し再帰し自己組織化し自己拡張するのと同様に、加速するテクニウムの流れの中で、データも絶えず動き続け増え続け、自律的に拡張し続けるのだ。遠くない未来に、わたしはそれを、単なる生活として知るだろう。目の当たりにするだろう。手で触れるだろう。あるいはすでに、わたしはそれを知っている。わたしはそれを知っていた。知っていたはずだった。もしや知らないとでも?

過去の話だ。今から50年以上前のこと。ウェブの総数は2000年代の後半には60兆を超えていた。そのころのウェブは、生まれてからまだ、8000日も経っていなかった。
そのときわたしたちは見た──2000年代の初頭には5000万ものブログが立ち上がり、2010年代には毎分6万5000本もの動画がウェブにアップされるようになるさまを。世界中の若者たちが数十億ものちょっとした動画を撮影し、それに対してまた書き込みし、書き込みのURLをまた投稿するさまを。目撃した。目撃し続けた。わたしたちはそれを目撃していた。そこでは何かが始まっていた。それが何かということは、そのころのわたしたちにはまだわからなかったのだが、今ならわかる。今のわたしたちならば。
やがてハイパーリンクはデジタル情報をつないでゆき、ビデオゲームの中で起きていることはニュースと同様に検索可能になった。すべての動画が検索可能になり、ユーチューブの中で起きていることも、その他のあらゆる動画サイトの中のことも、静的なテキスト情報と同様に把握可能になった。あるいはそれは、ソフトウェア空間だけでなく、ソフトウェアが侵食するハードウェア空間においても同様に起きつつあった。そのときすでに、物理的なものは物理的であるだけではなく、情報的なものでもあった。そこでは、ハードウェアとソフトウェア、物理と論理、具象と抽象、生物と情報、数理と詩が同等なものとして処理された。IoTデバイスとARデバイスが、それまでの──物理的でしかなった──現実を書き換えたのだ。2020年代にはあらゆるものにセンサーが取り付けられ、IoTデバイスとしてインターネットに接続され、ARとして視認され、そうしてわたしたちは、手の中のスマートフォンで、たとえば自分の部屋を検索することができるようになった。温度センサーや音響システム、冷蔵庫の中の状況や洗濯物の乾き具合を、わたしたちはスマートフォンで知ることができるようになった。そのころから機械学習の精度が加速度的に向上し、機械はわたしたちのウェブの利用パターン、生活習慣、それから過去のウェブの文脈を学び始めた。そしてそれは未来に対しても同様だった。それから約30年が経ち、2050年代に入ると、あなたはある程度の未来──数十秒、数分、あるいは数時間先の未来──が予測可能になった。
あなたは目を覚まし、朝食をとり、会社に向かう。そのあいだにもずっと、学習するウェブはあなたのためにあなたの行動パターンを解析し、あなたの意図を読み取ろうとする。そうして学習するウェブは、会議が始まる前に、必要なファイルをあなたに送付する。会議後には、上司や同僚や部下たちと何を食べに行けばいいのか提言するために、その日の天気やあなたのいる場所、今週食べたもの、以前に上司・同僚・部下たちと食べたものなど、その他あなたが考えそうなさまざまな要素を考慮する。そのころのウェブは、わざわざジャック・インして入り込む外部的な場所などではなく、あなたの存在の一部、あるいはあなたの存在そのものと言うべきものになっていた。それは、目には見えないが常時存在する何かであり、あなたの外にあるが、あなたの中に入り込んでいるものでもあった。そのすべてがあなたであるわけではないが、すべてがあなたではないとは言い難く、それがあるからあなたであるのか、あなたがいるからそれがあるのか、あなた自身にはわからなかった。それは、一言で言えば、宇宙と呼ばれるものであり、その宇宙は原子ではなく、あなたが生きる物語でできていた。やがて物語は増え続け、すべての物語は図書館の中に所蔵されていった。

その図書館には完成品は所蔵されない。完成はなく、完了はなく、何も終わらず、目に見える成果物はなく、変化だけがある。決して終わることのない変化だけが、分散された中心として存在する。永遠に、生起しつつある途上にあること。それこそが次に来るものだ。プロセスがプロダクトを凌駕する──それこそが来たるべき現象だ。予測可能で不可避なものごと。創造されるあらゆる必然。傾向性、志向性、法則性。原理と原則。テクニウムの見る夢──あなたはそれを知っている。あなたはそれを知っていた。あなたは網状に広がるハイパーリンクに接続された、無数のビットの無数の情報の一つの例として、この文章を読んでいる。PCで、タブレットで、スマートフォンのブラウザで。あるいは複製された文字列。テキストファイル、ドキュメントファイル、画像、スクリーン・ショット、それともインクジェット・プリンターによって出力された物理的な文字列。何を用いてどう読もうとあなたの自由だ。あなたがそれを気にかける限り、あなたはそれを読んでいる。たとえばあなたがそこに何かを書き加えようと、切り刻もうと、別のテキストや別の絵や別の写真の中に混ぜ込んだり、その中にまた異なるテキストや絵や写真を混ぜ込もうと、その書物はその書物のままだ。固定化された名詞の世界から、流動的な動詞の世界へと移行していくこと。生まれること。生きること。それはあたかも、あなたを形成する細胞のすべてが入れ替わったとしても、あなたがあなたであり続けるように。あなたが年老いて、皺が増え、白髪になり、目がかすみ、耳が遠くなったとしても、あるいは何かの事故や何かの病で、あなたがあなたの身体を失ったとしても、それでもなお、あなたはあなたであり続けるように。
広大な図書館に、同じ本は2冊ない。すべての書物は引き裂かれる。すべての書物は変わり続ける。すべての書物はそれを避けることはできない。すべての書物はそれを望んでいる。すべての書物は読まれ、引用され、話され、編集され、利用され、拡散されることを望んでいる。すべてのデータは無限に向かって突進していく。

すべては動いている──テクニウムの志向する方角に向かって。想像可能なものは実現可能なもので、それはたとえば100年前にH.G.ウェルズが〈世界脳〉と呼んだもの。あるいはテイヤール・ド・シャルダンが〈ヌースフィア〉と呼んだもの。それとも〈グローバル・マインド〉や〈集合精神〉と呼ばれたもの。本書でケヴィン・ケリーが〈ホロス〉と呼んだもの。そこでは全ての人は90億ものデータとなって、リンクとリンクで交差しあい、機械と協働し、サイボーグと協働し、社会を形成し、自然と一体化し、〈ホロス〉としか言いようのない、図書館のような一個の生態系を形成している。図書館では、40億の携帯電話と20億のコンピューターが地球を覆う大脳皮質を形成し、150億のデバイスが回路に接続され、860億のニューロンが生成するデータを処理している。10の21乗個のトランジスターが1ギガヘルツのクロック周波数で動作し、毎秒100万のメール、1000億のチャットを処理し、毎秒10テラビットのデータ量を、600エクサバイトの容量を持つ外部記憶装置へと流し込んでいる。人々は毎秒1000億のページをブラウジングし、システムを支えるバックボーンとなるネットワークは510億ヘクタールに広がり、40億の人間のニューロンが150億のマシンに向かってリアルタイムで発火している。そこでは文字通り、一人の人間の夢は、万人の記憶の一部となっている。1世紀にも及ぶプロセスで、それは始まり続けている。

この図書館は動き続けている。この図書館はとどまることはない。デジタル宇宙では、静的で固定されたものは何もない。すべては生起しており、生起しつつある。わたしたちはそれに気づかないだけだ。つねに動き続けるものは、もはや動きとしてとらえられることがない。生起する過程とは自ら見えなくさせる動きであり、あとから眺めてみないとわからない。生起する力は軌跡を示す。それは運命を告げているわけではない。たどり着く場所があらかじめ決められているわけではない。それは、試行する過程で不可避な方向を、ただ指し示すだけだ。

網状の棚は無限の組み合わせを試行し続け、ビットの書物は無限に増殖する。本とは紙や文章のことではなく、本になっていくすべてのデータの状態を指し、図書館とは本の集合のことではなく、本になっていくもののすべてのつながりのパターンを指して言う。次々にコメントが繰り出され、敏速にカットされ、生煮えのアイディアが放り出され、ツイートされ、煽りタイトルがアップされ、うつろいゆく印象の中でまた、フェイスブックやタンブラーやインスタグラムで誤読が拡散される中で、それでもあなたはあなたの言葉で考え、書き、調べ、編集し、書き直し、シェアし、ふたたびソーシャル化し、コグニファイし、アンバンドルし、スクリーンの上で広がり、みたびシェアされ、編集され、本は一連の流れのどこかで、ある瞬間の本になる。スナップショットである本と本のあいだ、スクリーン上では言葉が動き、画像と融合し、色を変え、ときにはその意味さえも変えながら、無数のコード、無数のリンク、無数の神経経路と接続され、離れ、再びつながり、同じ形であることは二度とない。バージョンアップ、アップデート、サンプリングとリミックス、マッシュアップとパロディ、分離と結合。貨幣の表と裏を、神は同時に眺めることができ、人もまたそれを目指し、貨幣の表と裏を接続した。
ここで呼ばれる図書館とは、宇宙のことである。本が別の本に姿を変え続け、錯乱した神のように一切を肯定し、混同する、熱に浮かされた図書館。切り離され、解体され、未完のまま宙吊りになったすべての書物。アンバンドルな書物と量子的な図書館。それは無限に拡張し続ける。それは無限に、数知れぬ未来に向かって分岐し続ける。それは終わることはない。すべては流れであり、そこには流れだけがある。そのため、この草稿の結末は、決して存在することはない。永遠に。


【参考・引用文献】
以下に文献を示す。本文は以下の文献に内容の多くを負っている。
本文は、それぞれの文献の一部について、リファレンスし、サンプリングし、リミックスし、ある種のパロディとしてマッシュアップし、編集と改変を施すことによって、ひとまとまりの草稿としての整理を試みたものである。
それはまた、ここで取り上げたそれぞれの文献に書かれているとおり、無数の誰かたちによってすぐにコグニファイされ、カット・アップされ、アンバンドルされ、ソーシャル化され、宙吊りにされる、永遠に未完のものであることを、ここでのわたしは知りつつも、結局のところ文字列など、所詮は一つの紙片の上に閉じられた世界に過ぎないのだと錯覚することへの欲望に、はたしてわたしたちは抗うことができるのだろうか。
たとえばかつて世界は一冊の本で、世界を構成していた各々の現実は、紙片に垂らされたインクの染みだった。今ではそうではないと言われているが、そうではないはずの確かな根拠を、一体誰が持ち合わせていると言うのだろうか。
ばらばらになってしまったこのわたしはまだ、なんの答えも持ってはおらず、こうして見当外れの愚かな整理を試み続けているには違いない。ここにわたしはおらず、わたしはどこにもいないのだから。


・ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』2016年、NHK出版、服部桂訳
・ケヴィン・ケリー『テクニウム』2014年、みすず書房、服部桂訳
・ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』1980年、集英社、篠田一士訳
・ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』1993年、岩波書店、鼓直訳